武石浩玻 1884年(明治17)~1913年(大正2)
 茨城県那珂郡勝田村勝倉(現在のひたちなか市勝倉)生まれ。本名は道之介。
 

1902年(明治35)茨城県尋常中学校(水戸一高の前身)卒業後, 直ちに渡米。10年間にわたり勉学に励む一方, 行商・農業労働・新聞発行などに取り組む。その後, カーチス飛行学校に入学し, 優秀な成績で卒業した。1913年(大正24, 11年ぶりに帰国し, 大阪朝日新聞社と都市連絡飛行の契約を結んだ。こうして, ライト兄弟が飛行機を発明して10年目に日本人初の民間人飛行士が誕生した。

今さらに老ひたる父母の涙をばそそがしむべく帰る我かな

同年53日(土)鳴尾での旋廻飛行に成功。4()は鳴尾・大阪・京都の都市連絡

  飛行に挑む。京都の深草錬兵場に着陸する寸前, 機体の重心を保持するための鉄片が離れて操縦不能となり, 地上に激突して絶命した。無残な姿となった機体は臨場の久邇宮邦彦親王によって「白鳩号」と命名された。菊地謙二郎校長らが発起人となって記念碑建設募金活動が行われ, 年末には飛行服姿の銅像が建立された。