水戸城の歴史
 水戸城の起源は, 鎌倉時代初め(1193年・建久4年)まで遡り, 那珂川と千波湖に挟 まれた台地の東端に「館(たて)」が築かれた。創建者は吉田郡の豪族石川次郎家幹の次 男, 馬場小次郎資幹(すけもと)という人物で, 源頼朝から大掾(だいじょう)に任ぜられた のを機にこの地に居城を築いた。その後, 馬場氏の主力は府中石岡城に移り, 水戸城は 一族の者が在城する支城となっていった。ところが, 室町時代半ば(1426年・応永33 年), 河和田城に拠っていた江戸但馬守通房が大掾満幹の留守中に水戸城を襲撃し, 以 後165年間は江戸氏の居城となった。その当時は内城(うちじょう), 宿城(しゅくじょう),  浄光寺の三郭より成っていた。
やがて戦国時代末期になると, 常陸太田の佐竹義宣(よしのぶ)が水戸城進出を画策し, 1590年(天正18)12月, 父義重とともに水戸城を急襲して江戸氏を滅ぼし, この地を領国経営の拠点とした。翌年3月, 水戸城に入った義宣は江戸氏の城郭古実城(こみじょう)を本丸とし,城の出入口を東側から西に移して橋詰門(はしづめもん)を建てた。また, 武士や庶民が住んでいた宿城に義宣の居館を設けて二の丸(現在の県立水戸第三高等学校・水戸市立第二中学校・茨城大学教育学部附属小学校)とし, 大手門を建てている。さらには, 二の丸の西側にも郭を設けて三の丸とした。商人たちは大町に集められて町人町がつくられ, 次第に城下町としての形が整えられた。
 しかし, 関ヶ原の戦い後の1602年(慶長7)5月, 佐竹義宣は徳川家康から秋田(20 万石)への国替えを命じられ, 佐竹氏の水戸城支配はわずか13年間で終止符を打たれ た。家康は, 水戸城を東北諸大名に対する牽制・防御の拠点として重視し,
  ○1602~1603年(慶長7~8)第 5子武田信吉(15万石)
  ○1603~1609年(慶長8~14)第10子徳川頼宣(20万石)
  ○1609年12月~(慶長14~ )第11子徳川頼房(25万石。後に28万石, 35万石)
と, 相次いで重要な人物を水戸城主に封じている。その後, 頼房を初代とする水戸徳川 家は, 江戸定府ながら光圀(第2代), 斉昭(第9代)を経て昭武(第11代, あきたけ)  までの約260年間, 水戸領を治めた。1871年(明治4), 廃城。
その間, 徳川頼房は1625年(寛永2)・1628年(寛永5)・1638年(寛永15年)と 三度にわたる大がかりな修復事業を行ったが, 最初の修復で従来の本丸を兵器置場とし,  旧二の丸を本丸に改めている。但し, 堀の石垣構築の準備はしたものの, 結局は実施し なかった。城内の建物の多くは幕末の尊攘運動のなかで焼失し, 江戸時代に建造された 三階櫓(やぐら)も1945年(昭和20)8月2日の戦災で失われた。水戸城の遺構として 残っているのは, 空堀と土塁の一部, そして復元された薬医門(橋詰門)のみである。