薬医門  (昭和58年3月18日県文化財指定)

1 建物沿革

水戸城は, 建久4年(1193)に馬場資幹が大掾に任ぜられてこの地に居城を築いたのに始まる。応永33年(1426)以降は江戸氏の居城となったが, その当時は内城, 宿城, 浄光寺の三郭より成っていた。天正18年(1590)太田に本拠をおく佐竹氏が城主となったが, 僅か13年間在城しただけで, 慶長7年(1602)には秋田に国替えになっている。しかし, この間に城の全容はほぼ完成した。すなわち, 内城を本丸とし, 城の出入口を東側から西に移して橋詰門を建てるとともに, 宿城を二の丸として大手門を建てた。大手橋の旧擬宝珠には「文禄五年丙申二月吉日建之」と記され、明治時代に取り壊された大手門の扉肘臺にも「慶長六年辛丑五辰七月吉日」とあったという。水戸徳川家時代の寛永2年(1625)には従来の本丸が手狭になったためここを兵器置場とし, 旧二の丸を本丸に改めている。
城内の建物の多くは幕末の尊攘運動のなかで焼失し, 三階櫓を昭和20年の戦災で失った。薬医門が水戸城の遺構として唯一残ったのは, 明治初期に初代茨城県令の安田邸表門として移築され, さらに昭和16年に市内の祇園寺に移されたのが幸いして両度の戦災を免れたからである。昭和56年, 祇園寺から水戸市に寄贈されたのを機会に旧所在地近くに復元した。

2 構造形式と特色

 三間一戸(脇扉つき), 薬医門形式, 茅葺風銅板葺。化粧棟木を支える4枚の板蟇股の雄大さと, 軸部材の木割の大きさに特色がある。

3 建立年代

  解体時の発見墨書銘は, 次の2つである。
イ 化粧棟木の「享保十八年七月日」の墨書銘
ロ 絵番付の使用(化粧棟上下の実肘下や板蟇股, 大斗などには, カブ, オモダカなど4種の絵番付が墨書されていた。)

4 昭和56年の主な修理箇所

イ 桟瓦葺を茅葺風銅板葺に改めた。文化年間まで城内には茅葺が多く, 三階櫓でさえも享保九年までは板葺であった。
ロ 屋根野地板や小屋組を新材に取り替えた。
ハ 控柱4本はいずれも根継が高い位置でされていて構造的に不安があったため, 2本については新材に取り替えた。
ニ 扉入双金具, 乳金物, 飾り鋲などの形状については在来のもの, もしくは圧痕などにより復元作製した
 
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